2020


ーーーー 6/9 −−−− 母の看取り


 
6月6日の朝、母が亡くなった。享年94才。生まれつき心臓が弱く、口癖のように「私は長生きできないと思うの」と言ってた母だが、結果として本人も驚くほどの長命になった。

 母は東京に生まれたが、父親の仕事の関係で満州に移住し、かの地で終戦を迎えた。終戦直後の混乱と、引き揚げの苦労話を、よく聞かされた。帰国してから父と結婚したが、その後のエピソードは省略し、14年前に父が亡くなってからの事を述べよう。

 父が亡くなると、母は東京に戻った。東京が好きで、父が亡くなったら自分は東京に戻ると公言していた母だった。自分で見つけた神田神保町の老人マンションで一人暮らしを始め、それが10年ほど続いた。その後、体の衰えとともに、身の回りの事がし難くなったので、食事付きケアハウスに移った。それまでの老人マンションと比べると、独房のように狭い暮らしとなったが、賄い付きなので助かると喜んでいた。良い介護ヘルパーさんに恵まれ、車椅子で散歩に出たり、美術館に連れて行って貰ったりと、思いのほか生活をエンジョイしたそうである。

 昨年12月の中頃、胆のう炎を発症し、都内の大学病院へ緊急搬送された。私も穂高から駆けつけたが、医師の見解では、全身の機能が低下しているので、いつ亡くなってもおかしくない状態とのことだった。それでもなんとか持ち直し、都内の医療介護付き老人施設に移った。もう寝たきりの状態となったが、意識ははっきりしていて、簡単な会話を交わすことができた。そのうちコロナ騒ぎが本格化し、面会が出来なくなった。

 4月中旬、熱が高くなり、肺炎のような症状が出たそうである。すると施設の医師がコロナを疑ってパニックに陥り、即刻退去を求められた。救急車が呼ばれ、移送先を探したが、どこも受け入れに応じようとはしなかった。最後にようやく、車で20分ほどの場所にある病院へ移すことができた。その病院の医師の診断は、コロナではないとのことだった。 

 一ヶ月ほど経ち、重い症状も出なかったので、次の転院先を探すことになった。容態の安定した患者を、病院は長く置いてはくれないのである。その時点で、口から食事は取れず、点滴も入らなくなっていた。母の希望で延命治療はしないことになっていたので、あと一週間程度で亡くなることが予想された。このまま面会謝絶状態で最後を迎えるのは忍びないということで、四谷にある姉の自宅へ移すことにした。

 5月22日、母は姉の自宅に入った。私は週末に急ぎの用件を済ませて、26日に合流した。姉の自宅は、1DKの狭いマンションである。その6畳の和室に母は横になっていた。私は徒歩7分ほどの場所にあるホテルを予約し、そこから通うことになった。と言っても、ホテルに泊まったのは初めの三日間ほどで、あとは姉の自宅の狭い場所に布団を敷いて寝た。ホテルへは、シャワーを浴びたり、洗濯をするために行き来した。

 はじめの数日間は、母はまだ意識があって、呼びかけに応えた。「暑い、それとも寒い?」と聞くと「どちらでもありません」とはっきり答えた。別れ際に手を振ったりもした。幸いなことに、優秀でやる気に満ちた看護師さんが見つかり、毎日午前と午後に来てくれて、床ずれの治療やオムツ交換、痰の吸引、体の洗いなどをしてくれた。

 私が付き添いをはじめてから12日目の朝6時過ぎ、母が寝ている脇のカーテンを開くと、部屋の中がサーッと明るくなった。母はそれを待っていたのではないかと、今では思う。見たところ呼吸はこれまで通り安定していた。熱を計ると、37.7度と少し高めだった。ところが、脈を見ようとしたら、前日まではっきりとしていた脈が、弱くて取れなかった。そのうち咳を2、3回した。痰を吸引した方が良いだろうかと、姉と話した。直後息が止まった。あれっと思って二人で注視すると、しばらくしてまた深い息をした。「なんだ、脅かさないでよ」などと言ううちに、同じようなことを二回ほど繰り返し、ついに息が戻らなくなった。異常に気付いてから、わずか5分ほどの出来事だった。苦しむ様子もなく、穏やかにに母は旅立って行った。

 しばらく様子を見て、息が止まったままだったので、掛かりつけの医院へ連絡をした。8時過ぎにやって来た若い医師は、胸の隅々に丁寧に聴診器を当てた。私は「いまだご存命です」と言われないかと、変に気を回した。しかし、医師は聴診器を納めた後、「呼吸が止まり、心臓も止まっています。死亡を確認いたしました」と述べた。8時17分であった。

 もし夜中に息が止まっていたら、姉も私も、こんなに近くに居ながら、最後を看取ることができなかっただろう。それでは可愛そうだと母は思ったに違いない。思った通りの結果を得るためには、時にはわがままと思えるくらいの強い意志を持って事に当たるのが、大陸引き揚げを経験した母のスタイルだった。 




ーーー6/16−−− 延命治療


 
今年の初め、知り合いのご夫婦と昼食を共にする機会があった。私の母が末期的な状態になりつつあったので、そういう方面の話題になった。

 そのご夫婦が懇意にしていた医師がおられ、自らが病で余命いくばくも無くなった時、延命治療を拒否したそうである。延命治療は患者を苦しめる結果になるからすべきでないという、医師としての信念を持っており、それを実行する形となった。点滴が入らなくなってからは、水を含ませた綿で口を湿らせるだけで過ごし、10日後に亡くなったそうである。

 ご夫婦はその例を引き合いに出して、延命治療をしない方が、穏やかな最後を迎えられるようだと述べた。その一方、住んでいる地域に、評判がかんばしくない病院があったが、延命治療専門に方向転換したら、たいそう繁盛したとの話も出た。

 病気や老衰で体の機能が衰え、口から水分や栄養を取れなくなったときに、人工的手段で生存を図るのが延命治療である。治療の目的は回復ではなく、ただ命を永らえさせるということである。その是非をめぐって、ネット上などでいろいろな意見が展開されている。

 先日亡くなった母は、元気なうちから延命治療をしないで欲しいと言っていた。何か思うところがあったのだろう。昨年末からの経過で、二番目に入った医療介護付き老人施設では、入所時に延命治療はしない旨の覚書を交わした。治療は点滴までとし、それ以外の処置はしないという内容だった。これで母の願いは叶うだろうと思ったが、そう簡単には行かなかった。

 口から食べ物を取れなくなると、鼻からチューブを入れて、胃に直接栄養を送る「経管栄養」を医師が提案した。それは延命治療の一つと考えられるが、医師は「まだまだ意識もはっきりしているし、経管栄養で元気に長生きして頂いた方が良いのでは」としきりに勧めた。医師の真意がどこにあるのかは分からないが、専門的立場の人から「救える命をみすみす無駄にすべきでない」などと言われると、素人はビビッてしまう。

 その後コロナ騒ぎが本格化し、予想外の展開を経て、延命治療無しの自宅での看取りということに落ち着いた。その間、数人の医師と意見交換をしたが、曖昧な態度で話の焦点がぼやけるようなことが度々あった。医師としては、なかなか決断をし難いのではないかと思われた。体が衰えて点滴が入らなくなり、水分と栄養の補給が一切止まれば、一週間から十日程度で亡くなるのが一般的との事。そのように確実に予定される死への行程を、人の命を救う立場である医師が黙認するというのは、職業意識に障るところがあるのかも知れない。

 自宅での介護が二週間を過ぎ、ついに最後の段階に至った時、担当の医師はこう述べた 「体が弱って受け付けなくなっている状態で、水分や栄養を無理に入れ続ければ、体に負担が生じ、却って本人が苦しむことになります。体に何も入れずに、枯れるようにして亡くなるのが自然であり、本人の苦痛も少なくて済みます。体から水分が抜けて枯れていくと、痛みや苦痛という感覚が無くなり、代わりに脳からある種の物質が分泌して、花園や過去の思い出のシーンなどが見えるようになり、最後を迎えるのです」。

 たしかに母は、枯れるように穏やかに、苦しみも無く、静かに息を引き取った。





ーーー6/23−−− 宅急便のトラブル


 
4月のことである。出来上がった学習机を、Y社の家財宅急便でご注文主へ送ろうと思い、フリーダイヤルへ電話を入れた。このサービスは、梱包、輸送、搬入、開梱までを一貫して行うもので、以前にも数回利用したことがあった。

  ところが、電話口で応じた女性は、「手作り木工家具とか、オーダー家具はお引き受けできません」と、断った。いささか食い下がってみたが、相手は頑として応じなかった。私は驚き、呆れてしまったが、それ以上話をしても無駄だと判断し、電話を切った。

 以前利用した時は、何の問題も無かった。今回何故、手作り木工家具が除外されたのか、理解に苦しんだ。業者のホームページを見ると、扱えない品目は列挙されていたが、その中に手作り木工家具とかオーダー家具といったものは挙げられていない。

 ここ数年の間に、家具を送る手段が限られてきた。特にテーブルのような大きい家具に関しては、以前扱ってくれた業者がどんどん撤退した。結局、このY社のサービスが唯一の手段として残っていた。そのY社が、手作り木工家具を名指しで拒否したので、お先真っ暗となった。

 何故断られたのか、思い巡らしてみた。ネット通販が隆盛を極め、宅配便業界は好景気のようである。そのため、規格外の品物の輸送など、面倒な案件は切り捨てるようになったのか。規格外の物とは、サイズが大きい物、運転手一人では運べない物、そして輸送中に破損した場合の保障が難しい物ということになろう。今回手作り家具が拒否されたのは、保障がネックになったのではないかと想像した。

 量産メーカー品のように、市販価格が決まっており、代替品の取り寄せも容易なジャンルであれば問題無かろう。手作り家具のように、価格にバラつきがあり、しかも一品物ということで代替がきかないジャンルは、ややこしいのか。保険を掛けるのだから良いではないかと思うが、部分破損でも全額保障を求められるようなケースがあるのかも知れない。ひょっとしたら、そういう方面の保険金詐欺事例も起きているのか、などと妄想はどんどん広がった。

 ともあれ、品物を送る手段が無くなって困った。自分で配達することも考えたが、コロナ騒ぎで移動が制限され、それもままならなかった。かくして、悶々とした日々を過ごしていたのだが、つい先日、Y社の家財宅急便の営業チラシが、舞い込んだ。これはいったいどういうことか? 

 チラシにご相談窓口の電話番号があったので、連絡してみた。最初事務的だった女性の応対は、私が過去に断られた経緯を話すと、気の毒なくらいに恐縮した。代わって対応した男性は、検討して折り返し電話すると言った。結局その翌日、営業担当者が工房に来て、説明を受けることになった。

 その担当者は、真摯な態度で状況を説明してくれた。木工家具でも、オーダー家具でも、従来通り引き受けるとの話だった。このようなトラブルの原因として、業務を取り巻く状況が以前と比べて複雑になっていて、慣れない社員が軽率な判断で電話応対をしてしまったのではないかと語った。不快な思いをさせた点は陳謝するとのことだった。

 私は、木工家具を輸送する手段は、現在きわめて限られているので、Y社のサービスに期待していると感想を述べた。営業マンによると、Y社のこのサービスは、以前は引越し的なニーズに限定されていたが、今では小口の製品輸送にも利用されているとのこと。今回チラシを送ったのも、この地域に木工業者が多いので、顧客発掘のための展開だと述べた。

 一般消費者の小荷物とも、大手業者の貨物とも違う、弱小木工業の隙間的なニーズにも、きめ細かく対応する輸送サービスとして提供され続ければ、有り難いと思う。




ーーー6/30−−− 竜頭蛇尾 


 
都心でコンビに入った。買い物の品を定めて、空いているレジに向かった。すると少し離れた所から「並んでるんだよ!」という荒っぽい声が聞こえた。レジのカウンターの角を曲がった先に、三人ほど並んでいた。声は、その先頭の中年男性が発したものだった。コロナ感染防止対策で、距離を置いて並ぶのは当たり前になっているが、初めて入った店だったので、しかもたまたまレジが空いた瞬間だったので、その列に気付かなかった。

 それにしても不躾な声の掛け方に、一瞬不快感を覚えた。しかし、列を無視した行動を取ってしまった私が悪いのだから仕方ない。私はゆっくりとその男性に近づき、正面から後ろに回って列に並んだ。狭いスペースだったので、そういう流れで列に付くのが自然であった。ところが私が近付くと、その男性は目を伏せて、なんだかちんまりした、卑屈な様子になった。別に威圧的な態度を取ったわけではないが、私の体格の大きさから、怖い人に見えたのかも知れない。

 先ほどの荒っぽい掛け声から一転した気弱な様子は、ちょっと惨めだった。まさに竜頭蛇尾といった感じだった。そんな事なら、初めから丁寧な言い方にすれば良かったのに、と思った。「すみませんが、こちらに並んでいます」とでも言えば良かったではないか。そのように言われれば、こちらも「それは気が付きませんで、失礼をしました」くらい返しただろう。お互いに不快な思いをせずに済んだわけだ。

 感情が先行して、つい頭の中に浮かんだ言葉が口から出てしまう。独り言ならそれでも構わないが、相手に向かって言う際には、無用なトラブルを招きかねない。一瞬立ち止まって言葉を選び、冷静かつ穏やかに話をすることが大切である。それには自制と忍耐が求められるが、忍耐こそがまっとうなコミュニケーションの基本ではなかろうか。